2016年10月6日木曜日

リスペクト、ときどきセクシュアリティ

いわゆる「リスペクト」について。
(今回はセクシュアリティ以前の話が中心なので、肩透かしに注意。)

セクシュアリティ如何の話の前に、
人と人の関係であるべきことのひとつに「リスペクト」というのがある。

リスペクトとは敬意を払うこと。
もっとゆるやかに解釈すると、人を「個として扱う」ことだと思う。

じゃあなぜ他人をリスペクト「すべき」で、「したほうがよい」のか?
もちろんどう行為しようと本人の自由だから、道徳的な領域の話になる。
そして道徳を説明するのは難しい。

たとえば個人的には、
「他者/他人」もまた自己を構成する一部だから、他人を人と思わない態度であればあるほど他人と自己の境界はあいまいになるし(自分だけ人であるのは難しい)、反対に他人を「個」として扱えば扱うほど、自己の「個」も確立されていくからだと考えたりしている。

また、人を「個」として扱うということは、そのぶん他人の未知の領域を「未知のまま認める」ことなのかなと思っている。未知は自分にとって不安も大きいし、支配者にはなれないということだけど、それは同時に余裕につながって、人として安定するために必要なことでもあるのだと思う(長い)。

……そんなこちゃこちゃは置いといて
単純に、リスペクトが保たれた関係とそうでない関係を比べてみればいい。態度が関係にもたらす影響はとても大きいのだ。


私たちは、セクシュアリティにしろ国籍や障害にしろ、人の一側面だけでその人を簡単に「観察対象」にしてしまうことがある。私も経験がある。

そんなとき、知らず知らずのうちに「リスペクト」は失われ、相手にもそれが伝わっていく。そうなると、その人との間にいい関係は築けなくなってしまう。

ときには「リスペクトの仕方」を間違えることもある。リスペクトの様式も文化だから、それが大きく違う相手に対しては、リスペクトしてるつもりなのにやり方が違うせいで伝わらないということになってしまう。
そんなときは文化の違いを新しく学ばなくてはいけない。

……話の裾が大きくなってしまったので「Aセクシャル」で考えてみよう。

前提として、Aセクシャルであってもそうでなくても、当然人には「個」がある。
Aの人は性愛者のことを奇妙に感じるかもしれない。でもだからと言って、性愛者だからというのをその人全体にまでレッテル貼りしてしまえば、その人はもはや「個」ではなくなる。

しかもそういうのは、あからさまにからかったり見下したりしていなくても、少なくとも相手には伝わっている。相手が自分を見るとき、常に「あなたはこうだから」という基準を敷いているのが、なんとなく分かってくるからだ。

たしかに「違い」がピックアップされるべき場面というのも多々ある。
ただ、そうでない場面と混同してしまうのはよくないということ。

……めちゃくちゃ当たり前のこと言ってる気がする。


怖いのは、こういう当たり前みたいなこともどんどん抜けていってしまうこと(自分だけかな)。理由づけが古くなっているのもあると思うから、たまに引っ張り出して確認をしてやるべきなのだろう。

にしても長すぎた😂 読んでくれた人がいたらありがとう……

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