2016年12月29日木曜日

自分にとってのAセクシャル

ブログを始めて数ヶ月たつなかで、自分にとってAセクシャルがどんなものになってきたかを書いてみようと思う。

大まかに言ってふたつある。


まずひとつは、Aセクシャルという言葉そのものと私の距離について。
一言で言えば「常に考えているわけではないが、気になる時期がある」。

ふしぎなことに(?)、この言葉と自分との距離には波があって、数週間〜数ヶ月のスパンで思い出したように調べだす節がある。

少なくとも今は、Aセクシャルであることに不都合を感じてはいないけど、どこかで引っかかるものがあったり、納得しきれていないのだろう。
ふいに思い出して調べだす時期がある。


ふたつめは、全然気にならない時期に思っていること。
それは、「だからなんなのだ」である。

今真剣に考えている人にはすごく失礼な感想かもしれない。
でも数年前に比べると格段に、自分の中でとてもあたりまえになってきている。

色々調べていくうちに、Aセクシャルという性質を発見したときの(過度な)期待感から落ち着いてきて、それが単に自分の性質の一部にすぎないということが分かってきたんだと思う。

まあでも、自分のどこまでがAセクシャルに由来する性質で、どこまでが他からの由来なのかとか、すべての整理がついたわけでもなく、Aセクシャル自体が何かに由来している可能性も残したままにしている。
とにかく今は「性的に惹かれない」ということを中心に理解している。


時期でなくても、たとえば性自認を意識する場面とかで、Aセクシャルとの関連とかを考えてしまうことはあるけど、
そうではなく、言葉と距離があるときは大体「だからなんだというのだ」という感じで過ごしている。そんな感じです。






2016年12月9日金曜日

「Aセクシャル判定機」は製造可能か?

我々がAセクシャルであるかどうかはただひとつ、他人に性的に惹かれるか否かにかかっている。

それじゃ、この「性的に惹かれない」という状況は、外部の数値として判定できるようになる日が来たりするんだろうか?

素人考えだけど性的欲求の強さ自体はたぶんいい線まで分かるんじゃないかと思う。
しかし肝心なのはそこではない。

性的欲求があろうがなかろうが、ポイントはそれが「他人に」向かないということである。

脳みその物質を調べるにしても、そんな細かい表現まで数値として出てくることがあり得るのだろうか?
電気が右へ走ってたら同性愛、左の場合は異性愛、みたいなことがあるんだろうか?

仮にあるとして、数値と行動が矛盾する人間がもし現れたら、その人は偽者とかただのセリバシーとか言われたりするんだろうか。

Aセクシャルはチョイスではないというが、それがいつか証明されるとしたら、いったい誰が示してくれるのだろう…。


Aセクシャルだけでなく、セクシャリティ判定機があったらどうなるんだろう……

そんな文明社会の妄想でした。